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神智学 教えの紹介(3―3)
私は誰なのでしょうか。人間であることは何を意味しているのでしょうか。
スーフィー教徒の賢い愚者の物語の主人公、ナスルディンは小切手を現金にするために銀行へある日行ったときに、銀行の窓口の係は、身分を確認できるものに彼に依頼しました。ナスルディンは、ポケットから鏡を取り出し、自分自身を見て、「その通りこれはまさしく僕だ、だいじょうぶ」と言いました。
現代の私たちは、鏡の代わりに運転免許証を性急に取り出すかもしれません。しかし、自分が誰かという私たちの感覚は、ナスルディンの感覚よりも決して深いものではないかもしれません。
私達は「私は誰なのか?」という問いかけを自分自身にすることはめったにありません。人間であることは何を意味するのでしょうか。
○汝自身を知れ
デルホイの神託所が助言したように、これまでの歴史を通じて、私達は自身を知ることを試みてきました。中世に、私たちは人間の身体的タイプと心理的タイプを決定するとされている「気質」の理論を発達させてきました。
近年、幾人かの学者は、無意識を調査してきました。その無意識には、フロイトが発見した私達の最悪の性質でいっばいの無意識や、ユングが発見した英雄的性質や賢明な潜在的気質のある広い無意識や、近年西洋において証明された個人的関心を越えた超個的意識(トランスパーソナルな意識)などが含まれています。
神智学と呼ばれる古代の不朽の智慧は、現代心理学がこれまで想像してきたよりも人間の性質の十分な範囲についてのより正確で細部にわたる知識を長い間提示してきました。インドのヨガ哲学、チベット仏教、古代エジプトの教えは、現代の神智学において見うけられる人間の性質の広い見解のいくつかの教えの源泉です。
人間の性質に関する神智学の記述において、あなたは自分自身の諸様相を認識し、また自分自身の中にかすかに感じる他の諸様相を見つけるかもしれません。例えば多くの人々が、これらの人間の諸様相が日常の自己を越えるものであるという感覚を持っています。この感覚が、詩人ウィリアム・ワーズワースが不死の感覚と名づけたものです。
私達のそれぞれ各人の中に、核心の永遠の火花、「アートマ」即ち大いなる自己、内なるキリスト即ち仏の性質があります。この性質は、私達が神と呼ぶ存在の神聖なる性質と一つです。私達は自らの人生経験が徐々に活性化させていく力を通して、この世においてこの自分の内なる核心の存在を表現していきます。
この諸力即ち私達が最も内なる自己を表現する容量と能力は、神智学の文献において諸本質(素因)と呼ばれます。
私たちはこれらの諸力を二つに分けて考えることができます。
一つは主に外側の世界に向かっているより一時的な部分で人格我と呼ばれる部分です。もう一つは、より深く、より内側に向かいより持続性のある部分で、高級個性と呼ばれる部分です。
「いつもの自分ではなかった」あるいは、「私は我を忘れていた」のような表現は、私達は、外側の低級な自己と内側の高級な自己と両方持っているという直観的感覚を示しています。古代の智慧は、こうした洞察を明らかにするのです。
○人格我
第一の諸本質、人格我において、あなたは容易に自分自身の人格我を認識することができます。その理由は、この人格我が私たちの性質の最もよく知っている諸相から成っており、通常「私自身」であると認識するものであるからです。
時々この人格我は低級な(低次の)自己と呼ばれますが、ピアノの鍵盤において低いミが高いミより劣っていないように、それは他の諸本質の部分より劣っているわけではありません。それら人格我、高級個性の諸本質は両方とも全体の必要な部分です。
人格我は、肉体(私たちが良く知っている濃密な肉体の部分とその肉体を流れるエネルギーに関連した「活力複体」と呼ばれるより精妙な部分)、感情と知的精神(マインド)の一部から構成されています。
肉体、複体すなわち活力については、あなたが疲れていたと感じるか、または「エネルギーがないと感じる」場合、あなたの生命エネルギーの流れは低下しています。あなたが、エネルギーが充満し生き生きと感じる場合、あなたの生命エネルギーの流れは強くなっているのです。
肉体はそのまわりと肉体を貫いて活力複体またはエーテル複体(または体)と呼ばれるエネルギー・フィールドを持っています。このエネルギー・フィールドは、ヒンズー教徒が「プラーナ」と呼び、中国人が「気」と呼び、西洋の心理学者によって「リビトー」と呼ばれる生命力によってエネルギーを与えられています。この力はすべての生き物にある普遍的なエネルギーで、その力の流れは生命と健康にとって本質的なものです。
感情、感覚、欲望、情熱は非常に強力な力です。そしてこれらの力は、大きな波動をもっています。私たちは人生を生きていく中でしばしば熱中し、興奮します。またほかの時には、私たちは意気消沈し不活発になります。そのほかの時には、私たちは怒ったり、悲しくなったり、優しくなったり、楽しく感じたり、これらすべての感情を短い周期の中で経験します。
私たちの体は、まず生命活力の複体のフィールドとその外側の感情エネルギーのフィールドによって囲まれ、浸透されています。
感情はこの感情エネルギーのフィールドを駆け巡り、時々私達自身を圧倒することがあります。
○個人的な知的精神(パーソナル・マインド)
人格我に含まれている知的精神(マインド)の様相は肉体の脳と密接に関係しています。そして、この様相はまた現実的、実際的なものごとを識別するので現実的な知的精神、脳意識と呼ばれます。そして私達のまわりの世界のより近くにあるので個人的な知的精神と呼ばれます。
この個人的な知的精神の力を通じて私達は、計画を作ったり、方向を決めたり、問題を解いたり、毎日の生活を組み立てたりするのです。個人的な知的精神は、「猿のような心(モンキーマインド)」と呼ばれ、あなたが瞑想しようとする場合には気づくと思いますが、絶えず意識する対象を一つのものごとからもう一つのものごとへと変えていきます。個人的な知的精神は、周囲の状況の特異性やすべてことの条件に関係なく、ものごとにたいてして決まりきった自動的な決定をおこなう座です。
例えば、他の人種や他の文化をもつ民族のある人が私達に対して乱暴な態度を取った場合、私達は、私達はその人を特定視し、その人の属するグループに対して敵意を感じるかもしれません。私たちは、自分達が理解している以上にそのような習慣と条件付けから行動しているのです。
○高級個性(インディヴィデュオリティ)
あなたは身体、感情および「猿のような心」と呼ばれる個人的な知的精神が無い自分自身を想像することができますか。あとには何が残されているでしょうか。私たちは、人格我のエネルギーと力を絶えず使用していて、そうした状況が現在の私たちであると通常思っています。
しかしながら時々、例えば私達が天啓を受け自分自身から高揚される場合、別の自分の存在のより深いレベルに触れることがあります。自然、芸術音楽作品の鑑賞や、宗教の献身的行為において完全に自分を忘れている時、私たちは自分が存在する感覚よりもより高い感覚に高揚されることがあります。
この日常の自己からの高揚(それは、エクスタシーという語が語源的に意味していることです)は、利己心のない愛、慈悲、同情の結果として起こることがありえます。
私達の進むべき方向性の感覚を与える霊的意思、霊的意向も、高級個性の様相です。私達自身がこの高級個性の様相にオープンになる方法の一つは、精神が外側に引きずられるよりも、静寂になり内側に向かう瞑想と観照の経験を経ることです。
この高級個性(インディヴィビジュオリティ)は、高級な自己、不死の自己、魂、生まれ変わりする自我とも呼ばれています。高級個性は人間の諸本質のもう一つのグループから成り立っており、一般法則と普遍的なことがらを扱う抽象的な知的精神の様相を含んでいます。
○非利己的な知的精神
個人的で低級な脳意識は、私達の経験によって条件付けられ、世の中での経験の影響のために絶えずで変化しています。
非利己的で高級な知的精神、あるいは抽象的な知的精神は、感覚的なものごとを扱うのではなく、感覚的なものごとに反応することの根本にある普遍的原理を扱います。ものごとの全体の部類を表す数学と象徴は、高級で非利己的な思考を呼び起こします。
しかしながら、非利己的な知的精神と個人的な知的精神は別々に別れた実体ではないのです。もっと正確に言えば、個人的な知的精神とは、非利己的な知的精神が肉体に入っている間に脳を通してどのように働くかということなのです。
非利己的な精神と個人的な知的精神の両者ともサンスクリット語でいうマナス、即ち精神(マインド)の様相です。
○直観
ある問題や概念に関して当惑している自分に気づいて、その後そのまま放置し、そして予感のないまま、解決のための洞察がおとずれることがあなたにはないでしょうか。これは精神を通して働く直観の例です。
突然訪れる洞察や啓明は、サンスクリット語でブッディ(覚智、覚性)と呼ばれる直観の特徴です。ブッディ(覚智、覚性)はさらに、他人、自然、惑星、宇宙、神との間において統一の感覚を生じさせます。
○霊的意思
直観および抽象的精神の本質(素因)は、大いなる自己、神聖な火花と呼ばれるアートマ(至高我)の様相である霊的意図、霊的意思によって導かれており、この霊的意図が私達のエネルギーを長旅である霊的なゴールへと動かし、内なる深みからの霊的方向の感覚を私達にあたえるのです。
大学院生が個人的な楽しみを延期するような場合、また私達が何年にもわたって霊的実践を続ける場合のように、私達が長い期間にわたって強い意思を持ち続ける時には、私達はこの霊的自己の機能を感じるかもしれません。こうした直観と霊的意思の本質は、私達と別れた部分ではないのです。むしろ、これらの本質は、私達の内なる一つの自己の様相です。
これらが、全なる神が、この世界で自らを表現する方法です。この直観と霊的意思の本質は、神と一体である内なる火花、入れの白い光、アートマ(至高我)から現れる虹の7色のようです。
○私達の長い旅路
「アートマ(至高我)はブラフマンである」は東洋の表現で、キリスト教徒の「私と私の父は一つである」という表現と似ています。この表現は、私達は神と一体であるという重要な概念を表しています。
内なる神、アートマ(至高我)は私達の存在の核心であり、ここからすべての諸本質が現れます。またアートマ(至高我)は宇宙を維持し、支えている神聖な基盤でもあります。
私達は、アートマ(至高我)にある家からこの世へと経験を得るために旅を始め、その旅によって経験豊かになり帰還していくのです。旅に関する神話とおとぎ話は、たびたび私達の人格我と肉体への旅とアートマ(至高我)にある家に帰還を描いています。親指トムの物語は、そのうちの一つです。
トムの父親は洋服職人で、トムの母親は紡ぐ糸でした。紡ぎ糸は、形を形成する以前の質料を表しています。形を形成する以前の質料から宇宙が織り成されます。洋服職人により織り成される繊維は、この紡ぎ糸から形成されるのです。
したがって、トムの親はアートマ(至高我)即ち神聖なる本質を象徴しています。すべてのものがこのアートマからアートマの補足的な男性面、女性面として現れます。
トムがあなたの親指よりも大きいということは決してありません。アートマ(至高我)は、ウパニシャッドの中で、偉大なるものよりも偉大なもの、つまり普遍的なものとして描かれますが、しかしまた小さきものよりも小さいものでもあるのです。それは、すべての生き物のハートに埋もれている神の点です。
私達が自らの霊的旅路に出発するときは未熟で、未経験であるように、トムは未熟児として生まれました。私達が人生経験を経たいと熱望するように、トムは家と両親のもとから離れたいと強く望みました。
トムは冒険の中で、牛に飲み込まれます。牛は、肉体を持つということを表している地上的な象徴です。トムは盗まれた品物といっしょにに下に落ち、そして狐や狼に飲み込まれてしまいます。狐や狼は、物質界への過度の執着を表す貪欲と大食の伝統的象徴です。
しかしながら、トムは馬の耳もとでささやくことによって馬を導きます。このことは時が経つにつれて肉体のコントロールができるようになることを示しています。
最終的に、トムは出発したときよりも賢い少年となって自分の家と両親のもとに戻ります。
物質世界を通って旅する私達の中の巡礼する魂は、神の中の点としてのプッディ(覚智、覚性)の純粋な鞘につつまれたアートマ(至高我)です。結合したこれら二つはモナド(至高単霊)と呼ばれます。モナド(至高単霊)は自らの霊的な旅路に旅立つと、非利己的な知的精神であるマナスの場には埋め込まれるようになります。
長い霊的巡礼の旅路を通して、これらアートマ(至高我)、ブッディ(覚智)、マナス(知性)の三つは、高級個性性として一体のままでいます。これら三つは、この世に反映されるようになります。ギリシア神話のナルキッソス(ナルシス)のように、高級個性はその反映である人格我と一緒になることで無我夢中の状態となり、本当は自らが誰であるかを忘れてしまいます。
私達は、高級個性即ちアートマ(至高我)、ブッディ(覚智)、マナス(知性)として、長い時間の期間の中でたくさんの人格我を反映してきているのです。これらの人格我の反映として、私達は自分の諸本質と能力をより完全に発達させるために挑戦すべき課題と機会に直面するのです。
私達が開花させる能力は、私たちがこの世でそれらを発展させて表現していくと、私達の高級個性の中で持続していきます。私たちが獲得していくものは、一時的には不活発であるかもしれませんが、失われることは決してありません。
最終的に、私達は、いくつもの生まれ変わりの人生を通しての長い旅路の目的を感じはじめます。神智学のような研究を通じて人生の意味を見つけることに興味を持っている人々は、霊的な家路に向かいはじめているのです。
霊的目標と共に働きたいという望みが湧きあがり、自分自身を思慮深く発展させ、自らの内の最高のものとのより大いなる調和の中で生きるように動かされたと感じます。
親指トムのように、私たちはアートマ(至高我)の中の自らの家に向かいます。
さらに学ぶための推奨本
『人間とその諸体』 アニー・ベサント著 人格我とは異なる不死の自己に関しての書(未邦訳)
『人間とその七つの本質』 アーサー・ロビンソン著 物質的存在から霊的存在としての人間の構成の概略に関する書 (未邦訳)
『人間の七つの本質』 アニー・ベサント著 物質を通して機能する内なる神聖な存在に関する書 (未邦訳)
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