神智学 教えの紹介(3―10)
ヨガは近年、人気があり、ファション性のあるものになってます。テレビやビデオでヨガを見て、大衆向けのヨガに参加する多くの人はヨガのことを、ヨガを頭を下にして逆立ちしたり、様々な姿勢に体をひねったり、呼吸のコントロールを実践する肉体の運動のことであると考えます。こうした見方は、理論物理学は元素の周期表における情報の操作であると想像するようなものであり、またこうした見方は、モーツアルトの協奏曲を演奏することは音階の多様性を表現することにすぎないと考えるようなものです。
ヨガはまた、西洋の人にとっては実際的な価値のない奇妙な東洋から取り入れたものであるという見方をされることもあります。しかしある意味では、伝統的な西洋の霊的修行に類似しているのです。ヨガは自己発見の技術であり、東洋のものでも西洋のものでもなく、普遍的なものです。
西洋におけるヨガの一般の人々への広がりは、このヨガという大なる科学のある一つの体系に興味が集中する傾向を伴っています。肉体運動、呼吸のコントロールを使うこのヨガの体系は、ハタヨガとして知られています。このハタヨガの体系には、他のヨガ体系のように、瞑想が含まれています。ハタヨガは肉体の訓練を強調しますが、その肉体の訓練は肉体を内なる霊的自己に従属させることを習得することを目的としています。このヨガの行為は、典礼を行なう教会において、崇拝者が起立、ひざまずく、ひれ伏し、着座等の行為を行なう伝統的な西洋の崇拝者の行為と異なるものではありません。
いくつかのハタヨガの肉体的訓練はよい運動ですが、ヨガ自体の本質的な理解がなければ、それらの運動は外側の殻にずきないものになってしまいます。ハタヨガの肉体的訓練が適切な準備と指導なしに行なわれた場合、肉体に緊張を強いてしまうことがあります。こうした理由から、他の方法のヨガのほうが多くの西洋の人達によりふさわしいかもしれません。
西洋において人々の間に広まったもうひとつのヨガは、マントラヨガです。マントラヨガは意識を集中して神聖な成句や言葉を繰り返して唱えたり、歌うことを含んでいます。このマントラヨガの体系は、音の秘教的潜在力の知識を含んでおり、マントラヨガの目的は、個人の感情的性質を通常の覚醒意識よりもより精妙な波長に同調させることで、究極的にマントラヨガの実践者が内なる神聖な声を聞くこと可能にすることです。
マントラヨガはいくつかの西洋の霊的慣習、つまり聖歌やグレゴリオ聖歌の唱歌、ロザリオの祈祷を唱えること、連祷の復唱、また東方教会におけるイエスの名を復唱するイエスの祈りなどと似ています。すべてこれらの言葉を唱える慣習は、精神を集中させ、霊的覚醒に集中するための技術です。
ヨガの目的である合一は様々な段階で経験されることがあります。時として互いに違った方向に引き合っている我々の体の力と精神の力は、調和と一体化の状態をもたらすために統合される必要があるのです。統合された体と精神は順次、変化する人格我の背後にある我々の真の存在であり霊または不死の自己とよばれるより深い何かとつながることが必要なのです。そして最終的には、我々の各個人の霊と普遍的で至高な霊との究極的結合があるのです。これら両者は、すべてのものの内にあり、すべてのものを超越しており、我々の一人一人の内に存在し、そして我々のまわりすべてに存在しているのです。
無限との合一はヨガの最高の目標です。このヨガという古代の科学の様々な体系は、最終的にこの最高の合一を成し遂げることを目指しています。すべてのヨガの体系において目標が同じであるので、ヨガという言葉は、合一が達成されるすべての方法を示すことに使われています。すべてのヨガの方法は、この合一のための自己訓練法を含んでいる自己探求の方法です。
ヨガの多くの方法が、ある行法を用い方において共通したものをもっています。すべてのヨガの方法がある種の基礎訓練が有効であることを認めています。有効な基礎訓練には、正しい肉体的訓練、正しい呼吸法、正しい道徳的行為、自分と他の人への尊敬、瞑想の実践などが含まれています。人の肉体的、感情的、知的、霊的性質のすべての面を整え統合することが、ヨガの目的であり、様々なヨガの体系で教えられているすべての訓練の基礎です。
実際のヨガの実習は、決してやさしいとことではありません。なぜなら、人の全体としての存在を調和させることが含まれているからです。実際のヨガの実習は、実践者の自己実現の動機が自分の勢力と他者への支配力を増大させる考えのない、利己心のないものでなくてはなりません。ヨガは、利他主義即ちキリスト教用語で我々の生活の中で表現された神の愛、アガペーの方法であるのです。
様々なヨガの体系のうち、4つのヨガ体系が西洋の学徒にとって特に価値があるものです。これら四つのヨガの体系は、他のいくつかのヨガの体系よりも、指導と指示が少ない場合でもヨガの実践がうまくいくという理由で西洋の学徒に適切なものです。これら4つのヨガの体系は、互いに連結しており、決して他の体系を排除することはありません。これら4つのヨガの体系それぞれが、我々の全存在のある一つの側面に焦点をあてるものであり、他の体系を補足するのです。
そのうちの一つのヨガ体系は、カルマヨガと呼ばれます。カルマヨガは行為の道であり、特に苦しんでいる人に何かしてあげたいという情熱的な同情によって動かされる人のための道です。このカルマヨガの道を辿る人は、けがれた自分の利益をすべて取り除くことによって、自らの動機を浄化します。カルマヨガは、自らの人生を奉仕に捧げたマザーテレサのような人達の道です。
しかしカルマヨガを実践するため、宗教団体に参加したり、インドに移り住む必要はありあません。すべての人を助ける行為やすべての非利己的な行為、言葉が、カルマヨガの実践なのです。他の人の福祉への関心を通して、我々はカルマヨガの実践者となることができ、そして生命のより深い理解に到達し、すべてのものとすべての存在である神の生命との合一にかつてなく近づくのです。
もう一つのヨガの体系はバクティヨガ、即ち献身の方法です。バクティヨガは、感情としての愛ではなく、あるいくつかの形で想像される最高の存在への献身と自己放棄としての愛を強調します。献身の対象となるものは、キリストやクリシュナのような神の化身であることもあります。また、聖なる母というような人間の神的側面の精神的イメージであることもあります。
このバクティヨガに、キリスト教やいくつかの大宗教が基づいています。バクティヨガは、多くの人が霊的合一の山頂へと登り始めるのを援助する道であり、神への崇拝に没頭することが喜びである献身的の情を持つ人の道です。しかしながら、様々な起源を持つ智慧と慈悲の源泉に尊敬の念を持って、バクティヨガの道を進むことが大切です。
三つめのヨガ体系は、ジュニヤーナヨガです。ジュニヤーナヨガは、通常の現実の知識ではなく、現実の生命の下にある永遠の真理の洞察としての知識を強調します。ジュニヤーナヨガと言う言葉は、英語の知る(ノウ)とギリシア語の知る(ノーシス)という語に関連しています。ジュニヤーナヨガは、現象を直知することから起因する知識を教えます。
ブラヴァツキー夫人(神智学協会の創設者)は、ジュニヤーナヨガは特に西洋の学徒のためのヨガであると言いました。ジュニヤーナヨガをずっと継続して辿る人は、生命の意味のより完全でより深い理解を獲得しようとして努力しているのです。ジュニヤーナヨガを辿る人は、良き科学者のように、既存の理論や現実的見解を捨てることを恐れずに、絶えず歪められていない全体像を探求しています。私達は、まわりのすべての考えを批判的な思慮分別で見て、そして自分が理解していないことについては判断を先に延ばすことによって、ジュニヤーナヨガを実践することができるのです。
第四のヨガの体系は、すべての他のヨガ体系の主要な特徴を組み入れたもので、ラジャヨガ、王のヨガと呼ばれています。このラジャヨガという王の道は、生活の秩序づける訓練、感情を浄化する訓練、知性を拡張する訓練、人間のすべての構成要素を一つの意図に合一させる訓練を含んでいます。ラジャヨガは、自らの変化する人格我と自己とを同一視することから解放し、自らを何かより以上の存在、普遍的で神の生命と同一である神聖で不死の存在であると理解することを目的としています。
ラジャヨガの道を進む人は、紀元前2、3世紀のインドの賢者、パタンジャリの語ったヨガ経典を参照することをおすすめします。パタンジャリのラジャヨガ経典は、ヨガ実践前の準備とヨガの実践を教えています。準備段階では、あらゆる宗教において見うけられる倫理の法則に従って生活することによってもたらされる思考、言葉、行為における正しい振る舞いと適切なヨガに進むための肉体的準備訓練を含んでいます。
ラジャヨガで実際に実践されることは、内的に理解される自己による規則的な内省です。ラジャヨガを開始するには、静かな場所で、体をリラックスさせ、窓を閉じ、しばらくの間外界の注意をそらすものから自らを遮断します。そして、自分の意識を外部から内なる覚醒の状態へと移行させる段階への準備をすることです。ラジャヨガで訓練は、適切におこなわれて結果を達成するのであれば、間隔を開けて実践するのではなく何年もの間、毎日実践する必要があります。
パタンジャリは精神を制御し、静めることを強く強調しました。パタンジャリはヨガを「精神の動きを静止すること」と定義し、その目的のために、一心集中、瞑想、観照という三つの段階を規定しました。ラジャヨガの実践する上でそれぞれの段階は他の段階に徐々につながっていくものですが、ヨガの学習の目的においては別々に記述されます。
ラジャヨガは、一心集中から始めることが必要です。その理由は精神は静まることを欲していなので、記憶や欲望、あらゆる種類の取るに足らない空想に満たされるようになり、心配ごとやこまごまとしたことによって乱されるからです。一心集中の目的は、この落ち着きがない精神をある対象や考えに集中させて、そしてすべての関係のない注意を散らしてしまう考えを閉め出すことです。物であれ精神的なものであれ、注意を引く何らかのシンプルな対象を使用して一心集中を始めるのがよいでしょう。そして完全に対象に意識が集中し、対象の中に意識が吸収されていきます。
一心集中の状態からつぎの瞑想の段階に入ります。瞑想では、花、形体を持たない性質、偉大な教師、抽象的考え等の何らかのある対象に関する規則的な思考の流れがあります。瞑想は一心集中よりも深い過程であり、瞑想の状態に入り、その状態を理解し、そして考えている状態に成るよう導くのです。この過程で、ラジャヨガの実践者は、単なるイメージや形体を超えて進み、自らと内なる生命を同一視します。
その後、観照と呼ばれる絶頂の状態が来ます。ラジャヨガの実践者はもはやある対象、考え、存在に関心を持たなくなり、これらを超えて、完全な静寂の状態(しかも力強く受身ではない状態)に進みます。そしてその観照の状態では、霊的自己からこの世の精神に、合一の感覚と神との一体感である啓明、洞察のきらめきがあるのです。
観照の経験は能動的な覚醒の一つであり、はげしい感情や人為的に導き出された知覚による経験以上のものです。観照においては、静寂が全体の理解と力強い平和をもたらします。観照はそこに至るまでの意識と自制心を飛び越えて達成できるものではなく、ラジャヨガの実践者を変容させ、啓明と日常生活において実際に大きな助けとなる内的な堅実さをもたらします。
ヨガの究極的目標は、至高霊との合一は、サマディ、または悟り(仏教の禅)、また神意識(キリスト教神秘主義)と呼ばれます。使われている用語にかかわらず、ヨガの究極的な目標は、制約された意識という地上の牢獄からそれぞれの人の霊を解放することを意味しています。一体となった至福の状態の経験は、「光輝く大海に滴り落ちていく露のしずく」という成句で表現されることがあります。逆説的に言うとその至福の経験は、あたかも大海が露のしずくの中に滴り落ちていく、というように表現できるかもしれません。
さらに学ぶための推奨本
『ハタヨガ』 ウォレス・スレーター著(未邦訳)
『ヨガ入門』 アニー・ベサント著(未邦訳)
『ヨガの科学』 タイムニィ著(未邦訳)
『ヨガの七学派』 アーネスト・ウッド著(未邦訳)
『普遍的なヨガの教え』 ラーダ・バーニア著(未邦訳)
『ヨガ 統合の術』 ロイト・メータ著(未邦訳)
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