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神智学 教えの紹介(1)





「肉体の死とは何でしょうか?

人間は肉体が死ぬとき、意識まですべて本当に死んでなくなっているのでしょうか。」














死とは何でしょうか。ある人たちは、死とは肉体が機能するのを、中止する瞬間を終えるときに生命と意識が最終的になくなってしまうことだと信じています。またある人たちは、死後にある種の生命の形体が残るのが、絶対に可能なことだと考えています。


たとえそうした死後の形体を証明することができなくても、多くの人々が、死後の生命の存在に個人的な信仰を持っています。この信仰は特別な宗教を信仰した結果であるかももしれないし、信仰した結果でないかもしれません。


もし私たちのある部分が死の後で残ることが真実であるとしたら、「死」と呼ばれていることは、肉体の死それ自体で終わりというよりも、一つの状態からもう一つの状態への推移であると見なすことことができます。

誕生、成長、成熟、老年および死の過程は、原子から宇宙に至るまでの自然のあらゆる状態に見うけられる大きな周期のうちの1つです。死が繰り返される周期の一部で、また事実、意識の異なった状態の新たな始まりとして見られる場合、ふつう死にたいして抱かれているいくつかの恐れは、除かれはじめられます。

生命が継続して肉体の死で終わらないという教えは、古代の霊的な智慧の蓄積から現代に継承されてきました。


以下の考えはあなたの考察のために提示されたもので、今日、神智学として知られている不朽の霊的な教えから来ています。




「私は誰なのでしょうか。 」

内面的には、私たちのうちの多くが食事をして、眠り、人類の種属を永続させるために生きていく人間である以上に、自分たちは肉体を越えた以上のものであると直観的に思っています。「私は誰なのだろう」 「私にはの肉体を超えた以上のものがあるのだうか」というような質問をすることは自然なことです。


神智学の教えは、人間は肉体を越えるもので、
人間は三つの主要な分野で機能していると示唆します。

1. 私たちの誕生の前に存在し、死後も存在し続ける我々の内に住む霊

2. 私たちの誕生の前に存在し、死後も継続する魂と精神


3. 肉体

私たちの魂と精神が、私達の内に住む霊の投射物あるいは「乗り物」である
という考えをよく考えてみてください。

魂は、慈悲、純粋な知性、理解、智慧というような徐々に獲得していく資質と人生の経験を吸収して長い周期の中で進化していきます。魂は、新しい肉体と人格我を周期的に持つことによってそうした進化をおこなっていきます。

しかしながら、私たち人間の進化の旅路が、私たちの人間的、霊的な可能性を開花させるのに多くの人生を必要とするということが言われています。そうならば、誕生と死の過程を私たちがすべて何度も通り抜けたということは論理的です。


しかし、より重要なのは私たちの多くが持っている自らの魂が経験したこと連続性を直感的に理解することです。私たちは、私たちの内面には、他の意識のより深い層があると感じています。規則的に瞑想を実行する人々は、例えば、日常の「目覚めている」意識とは異なる状態を経験するかもしれません。





○意識のその他の分野

すべての分野と物質に、物質の度合いは存在します。今日、X線とテレビによって、私たちが目に見えない世界の現実を見ることはより容易になっています。


科学は、物質とエネルギーの性質たえず広がっていく概念を扱っています、そして 見える力と同様に見えない力含んでいる考えを理解することはより容易になりつつあります。

それゆえに、人間がより他の面やより精妙な質料から成っている「諸体」をもっているということは想像しにくいことではありません。





○死と睡眠はどのように異なっているのですか?

神智学の教えは、死が睡眠とはあまり異なってはいないと示唆しています私たちが眠りにつく場合、意識は肉体から一時的に引き上げられます。しかし、私たちは、起きているときにしばしば思い出される感情的精神的な経験を持ち続けています。


私たちが夢を見ている時、私たちが目覚めている時間に経験している意識を超えた意識の領域に入っていく高みに達することができます。肉体の死では、我々の意識は睡眠中に入った意識よりもより高次の領域への旅がはじめるという考えを考慮してください。夢の状態では、私たちはまだ意識の中でに肉体と関係があり、夢のあと肉体に戻ることができます。


しかしながら、死ではこのつなぎめは恒久的に壊れてしまいます。また、何人かの透視家は、現実に生命力が、頭頂からすばらしい銀色の流れの形、もしくは銀色のひもの形をして引き上げていくのを見ることができます。





○死の後には何が起こりますか?

不朽の教えは、死後、私たちは意識が濃厚な物質のより重い振動からしだいに解放されるにつれて、自由を経験することができる光の世界へ行くと教えています。その世界は私たちの物質界と浸透しているといわれています。そのあと、魂は自らが得た深く至福な状態に入ることができる以前に、浄化のプロセスは起こります。

地上での人生の間、私たち主に物質界の望みと自分の望みを同一視しています。これらの望みは死の後に残ってしまい、一時的にさらに強められるかもしれないと言われています。しかしながら、魂が自らの旅路の次の段階を完成する前に、それら物質界の望みはとり除かれることになります。


おそらく、類推することがこの死後の過程についての説明の助けとなるでしょう。
私たちは、海水から水が蒸発し塩が抽出されるときには純粋な塩でない残留物が残ることを知っています。そのような不純物は取り除かれなれればなりません。


魂が肉体から去る場合、このような死後の過程の経過すると言えると思います。魂はまだ浄化の過程を通り抜けなければなりません。

特に感情が極度に強かった場合やまた特すごく建設的でなかった場合には、こうした死後の過程のことには、ある程度の時間が必要となります。私たちが死後、突然完全になってしまうということはありません。なぜなら、人間の魂の旅路は、多くの生まれ変わり(転生)が必要となると言われているからです。


私たちの恐れ、願望、喜び、悲しみは死後もとどまり、残ってしまいます。そして死後において理解される必要があるのです。しかしながら、徐々に浄化の過程は起こりそして自由の新しい状態で、魂・知的精神はそれが今住むことになった光輝く世界を認識し始めます。最終的に、私たちは、苦痛や悲しみのない、ただ喜びと成就だけがある褒美と安らぎの幸福な、天の状態にさらに目覚めていくと言われています。


私たちが今その「天国」の経験を創り出していることを覚えておくことは重要です。何が私たちの人生に動機を与えるものは何でしょう?

私たちは毎日の些細な生活のことにとても関心を持って考えたり、さらに、私たちはより深く考えたりしていますか。私たちは自分自身に意識を集中したり、他人に助けの手をさしのべているでしょうか。すぐに混乱してしまったりしていないでしょうか。また静かな熟虜や瞑想の時の助けにより、穏やかで集中した意識を保つことができていますか。

もし私たちがそのような慣習を養うことができるならば、肉体が死んだ後の天界への移行の過程はより容易になると言われています。私たちが今送る生活が、私たちが将来経験する死後の状態の型(タイプ)を決定すると言われています。

天界に私たちが滞在する期間の長さについて、いろいろな見解が述べられています。しかしこの天界滞在の期間の長さは、それぞれの人によって異なっていて、地上生活の時間の単位では計ることはできません。この天界での時間は、我々が知っているような時間とは関係のない状態であるからです。


神智学の教えは、私たちが天界で十分に休んで刷新された後、この世での経験に駆り立てられる情動を感じると教えています。その後、私たちは。もう一度生命の周期を始めるために新しい肉体に入って生まれる過程を始め、自分が作った状況へと引きもどされるようになります。


死後も意識の存在の続いていることを証拠が、ますます増えています。 肉体の外側にある人間の意識は継続して存在するということを証明することは難しいことですが、この概念を立証する証拠は、ESP(超感覚的知覚)および幽体離体験という分野における研究の結果として増えています。


転生(生まれ変わり)やいくつもの生涯の概念を立証する経験的な証拠と呼ばれるかもしれないものは、多く人々の過去の人生についての記憶と称されるものによって提供されます。いかなる客観的な意味でこれらの意識状態を証明することができない一方、それらの意識状態はしばしば全く本当のことと思われますし、またある人は、前世の人生が実際にに証明されたということを主張します。





○臨死体験

最も適切なものでは、レイモンド・ムーディ博士、エリザベス・キューブラーー・ロス博士、オーストラリアの著者 シェリー・サザーランド博士を含む研究者によって集められ発表された近年臨床のを経験した数百人の人達の証言があります。自分が臨床的に死んでいるものとみなされた時に、自分に起こったことを生きのびて語った調査を受けた人々の経験は、神智学の文献に記述されている記述とたいへん似ています。


大部分の人は、最初の経験は暗い囲いやトンネルを通り抜けていくというものでした。その後、その人たちは、自分が意識の焦点を再びあわせると、自分が霊的な「身体」の中で存在していると気づきました。この霊的な体の中から、彼らは手術台上や事故で壊れた自動車から救出された、肉体から離れているところから肉体が生き返るのを見ました


その後、多数の人が、自分は光と自由の世界にいることがわかりました。その光と自由の世界で、その人たちは完全な理解および完全な愛を具体化している光の存在にで会いました。光と自由の世界では、平和と幸福の深い感覚がふつう感じられます。


しばしば、これらの臨死体験をした人々は、自らの人生のいきいきとかえり見ることや再生されることを経験し、この肉体に入ってするの未完成の仕事を完成するために、自分達は帰らなければならないと理解しました。肉体に帰りたいとは思わなかった多くの人が、その臨死体験が完全に彼らの人生を変えてしまったと証言しています。自分は死んだと思ったけれど別の状態で存在し続けたことがわかって、その人たちはもはや死を恐れなくなりました。これらの人々は、他の人たちへの愛を養う望みをもって肉体の意識に戻りました。


その人たちは、この特別な一生の経験を通して、智慧の中で学習し成長することの重要性を理解しました。





○死の瞬間における援助


智慧の教えのを学ぶ人たちによってなされた重要な一つの提案は、死の瞬間に提示されることがらが、肉体から魂が離れる移行の過程を落ち着いて平和な雰囲気の中で起こることを可能にするようにして、肉体から旅立つ魂を手助けするということです。


特別に訓練された職員によって愛情のある介護と死ぬことへの自信が与えられるホスピスがいたるところで設立されたことにより近年、こうした死への支援での大きな前進がありました。





○悲しみは必要なのでしょうか


また肉体によって課せられた苦痛から、自らが自由であることがわかるようになりたいために、早く逃れたいとどんなに感じるに違いないか想像してみるのがよいでしょう。その意識の領域では、自分が慣れ親しんだ物質界でないことに最初は自分が気づかないでわずかに当惑してしまうことがあるかもしれません。


チベット死者の書やそのほかの臨死体験を扱った書では、死者を愛している人が自分の悲観や悲しみ持ち続ければ、死んだ人の死後生活の調整がより困難になると説明されています。悲嘆を感じることは自然なことです。また、現代の心理学者は、死別というものを抑圧することは健康的ではないということに同意するでしょう。


しかし、死を魂の規則的な誕生と死の周期の一部として見て、人生が終わった後の存在にに信頼を寄せる多数人が、自らのの悲嘆が減少すると証言するでしょう。そうし人たちにとっては、死は規則的で周期的な過程と見なされています。また、自分達の先立たれた愛する人の死後の生活が不確かなものであるという恐れはより小さくなっています。



自分の死の準備をすること


幼児が生まれる予定である場合、私たちは誕生の準備を行ないます。私たちすべてが結局死ぬときに、私たちはその死後の推移の準備をすることにより自ら死への努力することができます。私たちが人間のより深い側面を考慮に入れる人生をおくれば、この死後の移行への全ての家庭がより容易なものになります。





1. 入手可能な情報

死の前、死が進行中のとき、死後のできごとについて多くの本があります。
それらの本のいくつかは、死ぬ過程についての常識的な観察に基づています。

他の本は、死んだと思われていたけれど、その後生き返った考えている人の記述です。さらなる本は、神智学の文献のように死と死後の世界についての永遠の教えの記録です。



2. 死に適応することを学ぶ

死は大変化です。したがって、私たちは現在の状態との違いを予期する必要があります。私たちが死後の新しい状況へと意識的により適応可能になることを学べば、私たちはよりよく死への準備をすることができます。


もし私たちがこのようなこと覚悟していなければ、死という大変化は衝撃的です。規則的な瞑想は、私たちが私たちの内側の本当の自己と連絡をとって、この死という移行を穏やかにするのを支援することができます。



3. 私たちが誰かということを発見すること

死の重要な結末は、私たちが自分は誰であり、何であるかという感覚を調節しなければならないということです。通常は、日常生活中に、私たちは、自分と自分の身体、感覚、本能、感情および頭脳の思考を一体視しています。しかしながら、死の最中、もしくは死の後に、私たちは自分の同一性の感覚を調節しなければならないであろうと言われています。



4. 自分自身を毎日のことをよく考えてみること

死の過程が進行中のときまさに過ぎ去った人生を回願して見ると言われています。私たちは、毎夜その日の活動上をできるだけ公平に検討して考えることにより、その経験の準備をすることができます。これは、人生の多くの難題に対しての私たちが応える場合の肯定的な変化につながるかもしれません。印象を記録したり、私たちの日常の経験を評価したりするために日記をつけることはよいアイデアです。



5. 日常経験を超越する考え方の確立


ある肯定的表現あるいはマントラは、この過程を助けるかもしれません。
何人かの人々は以下の言葉が助けになると考えています。


おお,秘められし生命よ,すべての原子の内にて振動し給う

おお,秘められし光よ,生きとし生けるものの内にて輝き給う

おお,秘められし愛よ,万有を一つに抱擁し給う

御身と一体なるを感ずる者一人一人に,己れもまた,他の者すべてと一体なるを,知らしめ給え。

それらがしたがってすべての他のものを備えた一つであることを知ってください。ゆえにあるものがほかのすべてのものと一つであることを知ってください。


様々な伝統的教えを辛抱している人々は、こうした文章に異った反応をします。例えば、キリスト教徒は祈ったり、ロザリオに注目しようとするかもしれません。




6. より大きな状況の中で人生についてよく考える

この文章の中で提示されている考えが、あなたにとって意味がある場合、

それは、私たちの現在の人生が、私たちの存在の大きな周期の単なる1つの側面であり、カルマの法則(調和の法則)によってすべて管理されている多くの転生の中の一つの人生と思うことを促進するかも知れません。

現在の私たちは、私たちの過去の行動と思考の結果です。

私たちが毎日どのように考えてそして行動するかは、死後とおよび未来の生まれ変わりの生涯において私たちの人生の質を決定します。



7. 宇宙を備えた一つとしてあなた自身を視覚化すること

あなたを通して流れて、かつ、すべての生命へとあなたを加えている全宇宙の中で循環している純粋な白色光を浴びているあなた自身を想像してください。


大きな霊的な伝承の教えはすべてすべての生命に浸透している共通の霊的本質である一者、統一、全体性の基本的状態を指し示しています。






○最も大きな旅行


死後に人生についてのそのような教えの十分に重要であることを評価するために、私たちはすべて旅をしているという概念を深く考えることは必要です。

不朽の教えによれば、私たちは。私たちが出てきて戻っていきつつある大いなる源泉である、大いなる一つの炎の個々の火花です。



私たちは多くの転生(生まれ変わり)する人生を生きていて、そして何回も死を経験しました。結局、私たちの魂はその大いなる源泉、内在する大霊に戻るでしょう。

もし、ここに提示された考えが論理的に思える場合、私たちの旅路の肉体的な側面が、感情界と知的精神界において死後、洗練され死後に私たちが洗練し組み立てる経験を旅を遂行するのにより大きな能力と力へと変えてく機会を提供するというのは当然の理です。

私たちの天国は、したがって自分自身を作っていくことです。それは永遠ではなくむしろ同化と休息のための期間です。それぞれの地上の人生は、個々の魂が誕生と死の場所から自分自身を解放するとき、私たちを自らの旅路の終わりへと連れて行きます。


エドウィン・アーノルド卿はこの美しさを著書『アジアの光』の中で、つぎのように表現しました。

「魂は、啓明された者の例に続いていくだろう。「輝く海に落ちる水滴のようにして、そしてついに神聖なる源泉と一つになる」






○さらに読むための推奨本


『生と死の鏡 』 ローレンス・ベンディト著(未邦訳)



『私たちが死ぬ場合』ジェフリー・ファーシング著(未邦訳)



『死ぬ瞬間』 エリザベス・キュブラーロス 川口正吉訳 読売新聞社


『かいまみた死後の世界』 レイモンド・ムーディ著 中山善之訳 評論社


『死を通って再生誕へ』 ジェームズ・パーキンス (未邦訳)


『死と友になる』ジョン・ホワイト著 石井朝子訳 吉見伸逸解説 春秋社(未邦訳)


『私たちの最後の冒険 』レスター・スミス著  (未邦訳)



『死と死後』(小冊子装丁)アニー・ベサント著 田中恵美子訳 竜王文庫


『死の門をくぐって 』ジェフリー・ハドソン著(未邦訳)


『個が存続するという問題 』マイケル・マーシュ (未邦訳)


『光の内そして光に変性されて 」シェリー・サザーランド博士 (未邦訳)









         『死と死後の世界』 
 



子供が暗黒に入ることを躊躇するように、私たちは死を恐れる、とフランシス・ベーコンは言いました。死は、未知のものであり、私達の生命が継続するのを断ち切るものです。私達は、死を超えた世界について分からないので、死の脅威は大きいのです。しかし、ちょうど秋に葉が落ちるのが、春に新葉が出るのと同じように自然なことであるように、死は、出生のように自然なことです。すべての生命の形体は滅びて、そして新しい形体を生み出します。



私達は、死にたいしてどのように準備するかということと、死の過程とはどのようなものかということ、死の後には何が起こるかを知っていれば、私達は、死の恐ろしい一面を最小限とどめることができます。古代と現代の死に関する多くの量の情報と手引きを私達が利用するならば、私達は死に対処することについて学ぶことができます。



死の準備をすること

幼児が外界へと生まれてくるとき、私達は、その準備をします。私達は、自ら自立できない幼児のためのことをあらかじめ考えることをしないで、出産の作業を進めるということはありません。同様に、我々が死にゆく場合、死にたいして準備をするべきす。しかし、この死の準備については、私達が自分自身でおこなわなければなりません。よい死にとって最良の準備は、よい生活が実践された人生です。私達は良い死への準備を始めるとすぐに、その後の人生にとってより良い人生を生きることになるでしょう。
私達は現在の自分の人生に良いというだけでなく、死が最終的に来たときにも良いこととなるいろいろなことを行うことができます。それらのことがらは、下記の通りです。



死の後に何が予想されるか理解すること。

死の経験の前後とその間に起きるできごとについて、多くの書籍が書かれています。
幾つかの書籍は、死ぬ過程の常識的観察に基づいています。他の幾つかの書籍は、死の過程を辿りだした後生き返った人、即ち臨死体験者の体験談です。また、他の書籍は、死と死後の生活についての古代の教えで、今日では、神智学と呼ばれている智慧の教えの中に保たれている記録です。これらの本の体験者たちが語る死というできごとがどのようなものかということを学ぶためにこれら死に関する本を研究してください。



流れに身を任せることができるようになることを学ぶ

ちょうど誕生がそうだったように、死が私たちの存在の状態における大変化であることに疑問はありません。状態の違いをあらかじめ察してください。死の準備をするの一つの方法に瞑想があります。瞑想によって、死の後に経験するような変性した意識の状態にいくらか似た意識の状態に触れることができます。信頼できる本、信頼できる教師からいくつかの瞑想の技術を習ってください。



あなたが誰であるかを発見してください。

死の重要な結果のうちの一つは、私達が、自分が誰であり、自分とは何なのかという自分の感覚を調整しなければならないということです。通常私達は生活を送っている間、私達は、自分の体、感覚による知覚、本能、感情、脳による思考を私達自身と同一視しています。しかし、死の後すぐに、私達は、これらすべてを失います。そして私達は、自分の同一視する感覚を再認識しなければなりません。私達が死後の感覚の変容を覚悟していない場合、このよう体験は衝撃的なことであるでしょう。瞑想は、本当の自分であるあなたのより深い自己とあなたを接触させて、あなたの意識を再調整する助けとなるでしょう。



毎日、自分自身についてより深く考えてください。

死の瞬間に、私達は自らの眼前に閃光のように現れた過去の自分の人生における様々なできごあなたも毎日寝ている時にその日一日のの活動を再び思い出すことによって、そうした死の過程を経験することの準備をすることができます。自分がその日に何をおこなったかについての自己評価と印象を日記に記録することは、よい考えだと思います。この評価は良かったこと悪かったことの判断ではなく、自分の行動と答えを単に意識することを目的としたものです。、
日頃のそうした小さな評価が、最終的に大きな評価が順調に実行されるような下地をつくります。



日常の経験を超越する考え方を確立してください。

あなたは、ある断定的表現やマントラを使用することに有意義に感じることがあるかもしれません。あるのキリスト教徒は「イエスへの祈り」やまたその祈りの時にロザリオを使用しまます。ヒンドウー教徒は、「私はそれ(絶対神)である」という意味のマントラを使用します。
ある人は、以下の言葉を繰り返し唱えます。
おお,秘められし生命よ,すべての原子の内にて振動し給う
おお,秘められし光よ,生きとし生けるものの内にて輝き給う
おお,秘められし愛よ,万有を一つに抱擁し給う
御身と一体なるを感ずる者一人一人に,己れもまた,他の者すべてと一体なるを,知らしめ給え。



より大きな状況の中での生命というものについて考えてください。

あなたの現在の人生がカルマの法則(因果応報の法則)によってすべて支配されているということに気づいてください。またあなたの人生は、あなたの存在の大周期の中の一つの過程であり、多くの生涯における一つの人生、肉体を持つことであることに気づいてください。今日のあなたの姿は自分の過去の行動と考えの結果であり、今日あなたがどのように行動し考えるかということが、あなたの明日の状態を決めることになることを覚えておいてください。



あなた自身がある状態になったときのことを視覚化してください。

全宇宙を循環し、あなたを通して流れ、あなたにすべての生命を加える輝かしい清らかな光を浴びているあなた自身を想像してぐださい。神智学の文献には、死の経験を準備するのを援助するための、他の多くの一般的方法と特殊な方法が記載されています。





死んでいく過程

私達が他の人の死を観察する場合、死は閉じてしぼんでいくようなもので、生命から撤収していくことであり、否定的な過程であるように見えます。死の初期の過程を経験したあと、地上の人生に戻ってきた人達は、死について全く別の報告をしています。
臨死体験をした多くの人達は、死の初期の過程を、肉体から脱したことに気づいた深い平和と幸福の感覚であると描写しています。肉体に閉じ込められていないので、彼らは、自らの意識が自由に動くことができ障害がなくものごとを観察でき、望むところはどこでも旅することができることがわかりました。



死後の初期に段階で、速い映画のように過去の人生の場面を再び回願します。そして、死んでいく人はトンネル即ち大きな暗闇を通過してから、美を超越した世界が待っている対岸の光の中に入っていきます。死んでいく人は、その死後の新しい世界に新しく来た人を導き、これからのことを説明する友人や保護してくれる案内人といった「援助者」に出迎えられます。



いくらかの違った点があるものの、先に述べた詳細は、死にかかって生き返った人に共通の経験です。彼らの記述はまた、死後の状態がどのようなものかということに関するエジプトおよびギリシアの古代の教えと現代の神智学との教えと一致します。彼らの記述が典型的な死の経験を正確に表わしていると信じるたくさんの理由があります。彼らの記述は、恐れることは何もないことを示しています。



確かに臨死体験をした人にとって、死はもはや恐怖を与えるものではありません。なぜなら彼らは死が慰めになる喜ばしい経験で、人生の自然な終わりでないことを知っているからです。
死んでいく過程は、ウォルト・ホイットマンが「私自身の歌」に死の過程について記述したとようなものであることが分かります。
「すべてのものごとは、前方へ外へと進んでいきます。 崩壊するものは何もなく
そして、死ぬことは、一般に思われていることとは異なり、もっと幸福なことです」



私達は、死への移行過程が静かで平和に雰囲気の中で起こるようにすることで、死の過程にある人を、助けることができます。私達は必ずしも人生と死後の自分の意識を他の人と共有することができるとはかぎりません。しかし、私達が死を穏かなものとして受け入れることは、死の過程にある人がより平穏な態度を保つのに助けになります。





死後の生命

神智学の教えによれば、肉体の死の過程が完了するとき、私達の人格我は変容を経験します。私達が通常自分であると認識していた私達の衝動、傾向、様々な感情、習慣的な考え、自然な反応といったものは、分類され整理されます。すべてのこうした私達の過去の人生の産物は、二つの大きな部分に分割されます。


一つの大きな部分は、過去の人生のうちの完全に個人的、利己的で、一時的な様相から形成されています。これらは、私達の内的な核心の部分のまわりの一種の殻または繭(まゆ)を形成しています。我々のもう一つの部分である、その私たちの内的核心部分は、単なる個人的な性質を超越した私達の寛容で非利己的な部分から成立しています。私達の内的核の部分は、自分の人生において保存する価値のあるものすべてを、含有しています。


私達の人格的な殻の中の霊的な内的核心部分の発達は、蝶のさなぎの殻の中での期間に似ています。『チベット死者の書』とまた古代と現代の研究者によれば、霊的な内的核心部分が発達している間、私達は無意識に眠っているようなものであり、また田園詩的、天国にいるようないろいろいな経験をし、他の人達は苦しむ地獄のような経験をします。これらの経験は、報酬や罰でなく単に私達自身のの内的状態と潜在しているものの放射です。私達は、死んだ後すぐに完全にはなりません。私達の恐れ、渇望、喜び、悲しみは残り、死後の生活において果たされます。



最終的に私達の過去の人生の霊的な核心である善の果実は、我々の中の本当の実在である様々な経験を耐え忍んできた高級個性の自己に吸収されます。生きている間に瞑想することの一つの目的は、自分が内的自己と同一視することを助け、そして死後の意識へと意識が容易に移行するのに備えることです。その意識の移行が完了するとき、人格我の殻は消散し、私達は安楽で慰めとなる完全に幸福な天国のような状態に気がつきます。その天国のような状態においては、苦痛や悲しみはなく、喜びと充足だけがあるのです。



私たちがそうした天国の世界に滞在する時間の長さは、地上の時間では測定することができません。なぜなら、そうした天国の世界は、地上の時間とは無関係な主観的な状態であるからです。私達は、完全に休息させられ、新しくなった後、もう一度、この世で経験したいという思いに駆り立てられます。そして、私たちは、地上の生命の呼び出す声を聞くことになります。その後、私達は、もう一度新しい周期をはじめるために新鮮な体に新しく生まれるという過程歩みはじめます。



死が常に誕生のあとに続くように、再生誕も必然的に死に続いて起こります。生まれて死ぬことは、特異なできごとではなく、私達の生命と死という存在の二つの交替する様相の間の境界であるのです。私達をとりまくすべての自然のように、私達の存在全体は、様々な周期の一つです。夏と冬の一年の周期、月の満ち欠けの一ケ月の周期、昼と夜の一日の周期、心臓の収縮と弛緩の心収縮の周期など、多くの他のそのような周期が私達の人生の周期を形作ります。この観点から見れば、生と死は進行中の過程における状態です。死ぬことは終わりではなく、ひとつの状態から想像できるいずれ状態とも異なる、より幸福な次の状態への転換点であるのです。



智慧の教えは、生命と死、生まれることと死ぬことは、私達の存在の広大な周期における一時的なできごとにすぎないと考えます。私達は、この地球の世界が教えなければならないことをすべて学ぶまで、地球上で生と死を繰り返し続けます。その後私達は、宇宙のすべての諸世界を通じている無限の巡礼の旅の中での、他の活動と休息の形に移行します。死として私達が考えていることは、一時敵な休息にすぎず、神性の実在に根づいていてそれゆえ始めと終わりがない冒険の旅における小さな転換点にすぎないのです。



さらに読むための推奨本

『そして死の時 』 マーク・ピルグリム著 (未邦訳)

『死と死後』(小冊子装丁)アニー・ベサント著 田中恵美子訳 竜王文庫

『死にゆく友への手紙  愛する人の意識的な移行を助けるために』
アントン・グロース著 (未邦訳)

『死の門をくぐって 』 ジェフリー・ハドソン著 (未邦訳)