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神智学徒とは






                 神智学協会創設者 ブラヴァツキー著


神智学協会はおよそ十二人の熱心な男女の一団ではじまり、一力月後にはその数がたいへんふえて、会合の為に公会堂を借りぱならなくなりました。


二年のうちにヨーロッパの国々に活動的な支部ができ、更にその後インドのアーリアサマジと盟約を結びました。 アーリアサマジは博学なサンスリット学者ダヤーナンドサラスヴァティを長としています。 またセイロンのコロンボのヴィドョダヤ大学の総長で、「アダムの峰」の高僧である学識のあるスマンガラに指導されているセイロンの仏救徒達と同盟を結んだこともあります。


心理学を真剣に深く探究したいと思う人は古代インドの聖地に来なければなりません。古代インドの哀れな影である近代インドはたいへん低く落ちてはいますが、秘救的な智慧と文明の点では、インドほど、古いものはありません。 私達はこの国をのちのあらゆる哲学体系が出て来る実りおおい温床と見なし、あらゆる心理学と哲学のこの源に、その古代の知恵を学び、不思議な秘密を求めるために、神智学協会の本部はインドに来たのです。


言語学が大変発達したので、最近ではインドが人類の長子的国民であるという事実を、実証する必要がなくなりました。
近代年代学の証明されてない偏見に満ちた仮説は、一考にも価せず、やがて多くの立証されない仮説と同じように消えてしまうでしょう。


カピラ(紀元前三五○ー二五○頃。インドの哲学者、六派哲学中のサンキャ学派の開祖。唯一の有の代りに精神的と物質的の二つの実在的原理を想定する。)からエピクロス(道徳、教養などで規制された快楽を人生最大の善とした古代ギリシァの哲学者。紀元前三四一ーニ七○)を経て、
ジェームス・ミル(一七七三ーー八三六の英国の哲学者。経済学者)に到るまで、また、バタンジャリーからプロティノスを経てヤコブ・ベーメに到るまでの、哲学的継承の線は自然の中を流れる川筋をたどるようにたどることができます。


神智学協会の目的の一つは、肉体から離脱した霊の諸カに関するあまりにも超越的な心霊主義者の見解を吟昧することでした。また少くとも、心霊主義者達の現象の一部は人間の霊が行うものではないということを神智学協会は主張したので、そうした現象が何であるかを示すことが、今私達の義務となるでしょう。


明らかに私達は東洋で特にインドで、心霊主義者達の言う、いわば超常現象への鍵を探さねばなりません。 つまらぬことを言うという風評のない英印日刊新聞のアラババト・パイオニアの一八七九年八月十一日版でそのことが認められました。 パイオニア紙はまず「物質的発見に夢中の科学者は数代にわたって超物質的調査をあまりにも怠る傾向があった」という批判を述べ、「最近この信念をゆるがした疑惑の新い波」即ち心霊主義について述べています。


新聞はまた次のように言います。 高い救養と知力をもつ多くの者を含む大勢の人達にとって、「超常現象が再び調査と探究をするにふさわしい対象として認められて来た。 そしてより近代化した西洋の人達の間よりも東洋の聖者達の間に、もっと高い度合で超常現象が起きる条件として必要な個人的特色の形跡が、見受けられるという考え方を支持したもっともらしい仮説がある。」 それからその編集者は自分が弁護している事が、神智学協会の主な目的の一つであることに気ずかずに、インドでの神智学徒の努力は、この研究だけにおいては役に立つかもしれないと思っているのです。 「インドの神智学協会の有力な会員達はすでに神秘的現象の極めて進歩した学徒であると知られており、東洋哲学に関心を持つという彼等の宣言は、私達か指摘するような探究を実行するという控え目な意図を含めるように望まざるを得ない。」


そうした探究は神智学協会の目的の一つではありますか、沢山な目的の中のただ一つにしかすぎません。 その中で一番大切な目的は、アンモニウス・サッカスの仕事を復活し、さまさまな国民に彼等は「一人の母の子供達」であることを思い出させることです。


ちょうど今は、古代神学の超越的な面について、神智学協会が説明せねばならぬ時でもあります。

では、古代アーリアとギリシァの神秘家達が自然を探究したり、神を追求する科学を、又、近代の霊媒の力を、神智学協会はどの程度、承認するのでしょうか?

私達は全部を承認すると答えます。 しかし、もし何を信じているかと聞かれるならば、「団体としては何も信じません」と答えるでしょう。 神智学協会には、団体としての教義は何もありません。  教義というものは、霊的知識のまわりの殻でしかないからです。神智学のみのりは霊的知識そのもの、つまり、哲学的および神に関する研究のエッセンス(本当の性質)です。


地理学研究会は研究者がどんな宗教に属していようとかまわず、広範な地理学を代表しており、決して宗教的にはなりません。 それとまったく同じように神智学協会は、普遍的神智学の目に見える代表者として、決して宗派的にはなりえません。

神智学協会の宗救は等式のようなものです。イコール(=)の記号が省略されない限り、各神智学協会会員は自分自身の質を置き換えることが許されます。 自分自身の質とは自分の生国の気候、その他の事情や自分の民族の特色や自分自身の特異性とさえ、よりよく調和するものです。


受け入れている教義がないので、神智学協会は強制的な独断をただ受身的に信じて受入れることによってではなく、実際的な実験により、互いに有無通じ合い、教えたり教えられたりしようとします。 どの学派や思想体系であれ、それが主張している調査の結果が、論理的、実験的に立証されさえすれば、神智学協会はよろこんでその結果を受け入れます。 反対に誰が要求しようと、単なる信仰は受け入れません。



しかし、神智学協会の会員達を個人的に考える場合には、全く別の問題となります。 神智学協会の会員達はさまざまな国籍、人種に属し、たいへん違った教義や杜会的状態の中で、生れ育って来ました。 彼等はそれぞれ異なったものを信じています。


ある者は超自然主義や魔法とは反対だった寺院で教えられた古代魔術(註)や秘密の智慧に心を向けており、あるものは死者の霊と交わる近代心霊主義に、更にあるものはメスメリズム(生体磁気催眠術)や動物的催眠術に、または単に自然界の秘められた動力に心を向けています。
(註 古代魔術  ブラヴァツキー夫人の前期の作品では、高級勢力のもとで高級な霊的修行を行うことが、マジック(魔術)と言われている。後で彼女は実践的オカルティズム(秘教、密教)という言葉も使ったが、その用語もだんだん他の作家によって歪められてきた。結局、いずれも精神的なヨガの行、高級知識の実践的面をさす。)




ある人達は何ら決まった信念を得ておらず、心を配って期待している状態にいます。

また、ある意昧で自分のことを唯物論者だと言っている人達さえいます。無神論者や特定の宗教に属する頑固な宗派主義者は、神智学協会には一人もいません。ある人が神智学協会に参加しているという事実は、その人がものの究極の本質(エッセンス)についての最終的な真理を探究していることを立証しているからです。


哲学者はそんなことは不可能と言うかもしれないが、もしも、思索的無神論者のようなものがいるとするなら、その人はこの物質世界のものだろうと、霊の世界のものだろうと、原因も結果も否定するはずです。


詩人シェリーのような神智学会員達もいるかもしれません。その人達は自分の想像力を舞い上らせ、原因をつ一つを論理的に前の原因がなければならない結果に変えながら、無限に次の原因から次へと飛んで行き、結局、氷遠を単なる霞みまで薄めてしまします。 しかし宇宙の物質的な力を、有神論者が神のものだとする機能同一に見ても、見なくても、彼等は思索的意昧で無神論者ではありません。 力、原因、必然、結果という抽象的な理想の概念から自由となることは出できないので、その人達は人格神に対してだけ無神論者であって、汎神論の宇宙魂に対して、無神論者ではありません。


他方、頑固な宗派主義者は教義の囲いの中に囲まれ、その囲いのさくに、「往来止」という警告が書いてあるので、 神智学会にはいるために、自分の囲いから出ることもできないし、もし出ることができたとしても、調査を禁ずる宗救を信じる人のはいる余地は神智学協会にはありません。 神智学協会の根本的な概念は自由で恐怖のない探究です。


自然の隠れた側面を研究する独創的な思想家や調査者なら、唯物論者でも心霊主義者でもすベては神智学徒であったし、今もそうだと団体としての神智学協会は主張する。 つまり、物質をあらゆる地上生命の前ぶれであり、その潜在力であると認める唯物論者も、心霊主義者即ちあらゆるエネルギーと物質の起源は霊の中にあるとする人も、同じように神智学徒である。


神智学徒であるためには、特定の神の存在を認める必要はない。 ただ、生きている自然の霊を拝み、それと一体感を持つようにつとめることで充分である。 即ち、絶え間なく生ずる結果の中に自らを表わしておられる臨在・即ち目に見えない大原因、触知できず、全能遍在のプロテウス(変幻自在の神)を崇めさえすればよい。


そのプロテウスのエッセンスは分割できず形体もないが、あらゆる形体となって、あせわれるものの「此処にもあり彼処にもあり、どこにもあって、しかもどこにもないもの、全であり無でもある遍在しているか一つであるもの、すべてを満し、束ね、制限し、すべてを含んでいるエッセンス(本質)、万物の中に含れているものである。



有神論者・汎神論者または無神論と分類されてはいても、このような人達は互いに近い身内のようなもので、どんな人であっても、一たび慣例という、すでに踏み固めた古い道を捨て、独立した思いの道、即ち神への孤独な道に入るなら、その人は神智徒であり、独創的な思想家であり・普遍的な問題説くために「自分自身のインスピレーション(天啓)」で永遠の理を探究する人である。


自分自身のやり方で、神聖な原則の知識、また、神聖な原則と人間との関係や自然の中でのその原則の現われの知識を熱心に求める人とも、神智学は友達である。 公正な科学と精密な自然科学として通用するものとはたいへん達うが、そうした公正な科学が心理学と形似上学の領域に侵入しない限り、神智学はその仲間である。


また、神智学はいかなる公正な宗救の昧方でもある。 つまり、他の宗救に当てはめるのと同じ方法で審理されても意に介さない宗救のことである。

最も自明な真理を含む本は神の啓示ではなく、神のインスピレション(天啓)に基づいたものである。
しかし、すべての本は人間的要素を含んでいるので、自然の本に劣ると考えられる。自然の本を読み、正し理解する、魂本来のカを高く発達させねなければならない。

理想的な法則は直感的能力だけに認識できる。その法則は議論や弁証法の領域を越えている。 それでたとえある人が直接的な啓示を受けたと主張して本を書いても、その人の説明を通して他の人かその法則を理解したり、正しく評価したりはできない。


神智学は純粋な理想には最も広い範囲を許すが、事実の領域にも同じように堅実なので、近代科学とその公正な代表達に対する神智学の敬意は誠実なものである。 近代科学の代表者達は高級な霊的直感に欠けているが、世界がその人達に負う所は大変大きい。だから、偉大な自然科学達の奉仕を見くびろうとする人達に対して、才能のある雄弁な説救者O・Bフロシンガム氏か行なった高尚で、義憤にみちた抗議に、神智学協会は心から賛同する。彼はニューョークで行なった最近の講演で次のように講演した。 「科学は無宗救的、無神論的であるというが、科学こそ神の新しい概念をつくりつつある。 たとえわずかでも、我々が生きている神という概念をもっているのは科学のおかげである。 もし我々が近頃、新教の気を狂わせるような影響により、無神論にされないとすれば、それは科学のおかげであろう。なぜならば、科学は我々を悩まし、狼狽させるひどい幻影の迷いを解き、我々が見るものの推論法を救えてくれるからである。」



そしてまた、神智学協会が、ヴェーダや仏教、ソロアスター教、その他の世界の古い宗救を同じように尊敬し、また、ヒンズー人、セイロン人、パーシー教徒、ジャイナ教徒、ヘブライ人やキリスト救徒に対して「自我」、自然、及び自然の中の神性を学ぶ個別的な学徒達として、同胞愛を感じるのは、W・ジョーンズ(一七四六ー九四、英国の東洋学者)やマックス・ミューラー(十九世紀の英国の東洋学者)、バーノウフやコレプルック(一七八七ー一八七○英国植民地行政党)、ホーグ、サンヒレアー、その他の東洋学者の根気強い努力による。

アメリカ合衆国に生れた神智学協会はその母国を見習ってて設立された。母国はいつか国教をつくる口実を与えてはいけないので、憲法から神の名を除いて法律的にあらゆる宗救に絶対的な平等を与えている。 すべての宗教は国を支持し、各宗救はそれぞれ、国に保護されている。この憲法を見習った神智学協会こそ、「意識の共和国」と言える。

神智学協会の会員は個人として自分だけが良心の特権を味い、他の人には自分の意見を押しつけようとさえしなければ、自分の好むどんな教義を受け入れようと、受け入れまいと自由である。この原則の理由ははっきりしたと思う。この点では神智学協会の規則はたいへん厳格である。


神智学協会は古い仏教の金言の智慧、「自分自身の信仰を大切にし、しかも他人の信仰をそしるな」に従って行動しようとつとめる。プラフマサマジの「原則の宣言」ではその金言が今世紀に復活され、非常に立派に次のように言っている。 「どんな宗救もけなし、馬鹿にし、憎んではいけない。」


最近のインドのボンベイの評議会に採択された神智学協会の改正規則の第六条は次の通りである。
「神智学協会の役員が言葉や行為で、神智学協会のある部門(セクション)のいずれかにたいして敵意や好意を示すのは規則の違反である。神智学協会の配慮や努力の対象はみな同じであると考えねばならぬし、皆を同じように扱かわねばならぬ。自分の信仰の本質的特色を不公平な世界の裁きの前で説明する権利がすべての神智学会員にある。」

個人としての神智学会員は攻撃された場合、時にはこの規則を破ってもよいが、役員としてはそうしたことは禁じられ、その規則は集会の間は厳しく実施される。 神智学は抽象的な意昧ではすべての人の宗派を越えているからである。



宗教の宗派のいずれかが、神智学を含むには広範すぎるが、神智学のはすべての宗教の宗派を容易に包含する。


終りに、現在の単なる科学的な協会よりも見解がずっと広く、はるかに普遍的な神智学協会は、科学と共にあらゆる可能性に対する信念を持ち、精密科学がその愛好家達が探究する必要はないというふりをする未知の霊的領域に浸透することを決定した意志がある。

また、非キリスト教徒とユダヤ教徒とキリスト教徒を区別しないという点で、あらゆる宗教にはない一つの美徳がある。 神智学協会が普遍的同胞団として設立されたのはこの精神による。


神智学協会は政治には関心がなく、正直な労役に対する暴カと怠慢の仮装である陰謀にしかすぎない社会主義と共産主義の気違いじみた夢に敵対し、物質世界に対しての人間の外部的管理にはあまり気をつかわない。

神智学協会の熱望のすべては目に見える、および、目に見えぬ世界の真理に向けられる。肉体人間が帝国又は共和国の支配下にはいるかどうかは、物質の人間にだけ関係のあることである。肉体は捕えられるかもしれないが、魂に関しては人間は、自分を支配する者達に対して、ソクラテスが裁判官に答えたような尊大な答をする権利がある。 「支配者達は内なる人間を支配する力はない。」


神智学協会とはこのようなもので、以上のような原則、さまざまな目的がある。私達は一般大衆の過去の誤解に驚いたり、敵は大衆の評価で協会を神智学低めるための容易な手を見つけることができたという事に驚く必要があるだろうか?


本当の神智学学徒はいつも世捨人であり、沈黙と瞑想の人である。忙しい世界であるため、学徒の習慣や噌好にはほとんど共通性はないので、敵や中傷者は邪魔も働くことができる。 しかし、はすべてを癒し、虚偽は短い命でしかない。 真理だけが永遠である。


大きな科学的発見をしたニ、三の神智学協会の会員、そして真理学者や生物学者に、内なる人間という最も不明な問題に新しい光を役げかけた他の人達について、あとで私選は話そう。 今、私達の目的は、神智学は「新奇な教え」でも、政冶的陰謀でもなく、今日生れ、明日はなくなるというような熱狂家の協会でもないことを読者に立証することでしかない。


一人の人間の思いのあらわれ方は無限と言ってよいほど、さまざまではあるがすべてを包含するものではない。遍在するものではないので、必然的に一つの方向だけを考えて行かねぱならぬ、そして一つなる中心的、絶対真理の分岐は無限にあるので、一たび正確な人間知識の境界を越えると、人間の思いは誤まり、さまよわざるを得ない。 だから時々、とても偉大な哲学者でさえ、推論の迷路で道を見失い、そのため、後世の批判を起すこともある。



しかし、みな一つの目的の為に、すなわち、人間の思いの解放、迷信の除去、真理の発見のために働いているので、すべて同じように歓迎される。
まさに成熟しようとしており、しかも、偏見をもつ彼等、保守的な親達の代わりになろうとしている。 若い世代のこうした目的の達成は、理性を納得させ、その熱狂を温めることによって獲得できるもので、すぺての人はこれに賛成する。

そして偉大な者も、つまらぬものも、みな、知識への王道を歩んでいるので、私達はすべてに耳を傾け、小さなものも、偉大なものも仲間にする。
正直な探究者は空手では戻らない。

 そして一般の人に少しも受け入れられなかった探究者も、少なくとも自分のわずかな貢献を、真理の祭壇におくことができるからである。