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神智学協会に新しく入会される方へ
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| 神智学協会第7代会長 ラーダ・バーニア著 |
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「神智学協会に入会して私は何を得るのでしょうか」という質問がときどき寄せられます。 しかし、得ることを望む人は必ずしも良いものを得るとは限りません。
人生で最も良いものを得る人は、深い本当の意昧での慈善の精神を感じ得る人、言いかえると、与え分かち合おうとする人です。 最高のものとは、物質的なものではありません。わかりきったことですが、(神智学協会において)人は物質的には多くのものを得ることはできません。
しかし、本当に充実したもの、何ものにも妨げることのできないハート(心)の平和、人間が開花することのできる完成に至る感化力の接触の担い手になることはできます。 また、本当に良いものは何も持たず、ただ物質的なものだけをもっている人もあり得ます。 ですから、私達が最高のものを受け取るという場合は、世間的感覚での最高ものという意昧ではなく、人間個人が、自分の高級な自己と自分の意識内から展開する優れた美徳を援助するものを受け取ることを言っているのです。 その意昧から最も多く受け取る人は、喜んで与える人であって、自分のためにものを得ようする人ではありません。
したがって、神智学的生活の基本的な一面は、分かち合いの精神を持つことです。 それこそ、神智学的生活の始まりなのです。
神智学協会を奮い立たせた偉大な方々は、神智学は愛他主義であるとおっしやいました。 基本的にはその通りです。 私達は、外的世界のことを正したいと思うことを愛他主義であるとは言ってはおりません。 それは愛他主義のごく小さな形にしかすぎません。 外的世界でものごとを正すことはできますが、問題の根源が解決されないうちは、いつでも新しい問題が起こってくるのです。
わずかな人々が、その問題を解こうとしても、問題は引き続き起こるのです。ですから、たとえ外部のことに興昧を失っていなくとも、私達は外的世界のものごとを正すことだけに関与はしなのです。 私達はすべての人がその人なりに一般的な意昧で必要なものを、そしてまた、人生において良いものを受けとるのを見たいと思っています。 しかし、神智学協会会員にとって最も大切なことは、人類の苦しみの根源を探し、より深い段階でその苦しみの根源に対処することなのです。
したがって、神智学徒の生活とは、知性を育成する生活です。 私達が表面的なことばかりにかかわっている時は知性的な生き方ではないのです。 ある人が身体に苦痛がある場合、沈痛剤を与えれば、その苦痛を直接押さえるか止めるかして、表面的解決は見ることはできます。 しかし、その本当の原因が発見されていなければ、翌日、その人は苦痛を再発させるかもしれません。 その原因は強欲にあったかもしれません。 なぜなら、強欲であったから悪い食べ物を食べ、治療が必要になったのかもしれないからです。 鎮痛剤を飲み続けることで十分なのではありません。
私達は、他の人々と共に喜んで分かち合い、さらに基本的にはみな平等であることを理解するように情け深くなければならないだけでなく、さまざまなことについて、また、世界に起こっていることについて、何が真理であるかを見つけ出すために私達の知性や他のエネルギーを使わなくてはならないということになるのです。
現代は恐怖が増大しつつある時代です。 これは事実です。 西洋の何百万という人々が戦争の恐怖の脅威の下で暮らしています。 インドのような国々でも恐怖があります。 学校に行っている若い人々には失業という恐怖があります。 また仕事が得られても恐怖があります。 その仕事は人生でしたいと思うことをさせてくれないかもしれません。 そして収支を補う仕事に捕らわれ、多分隣人たちとの生活レベルを維持するために、余生を型にはめなくてはならないかもしれません。 このように、人間生活は様々な種類の恐怖に満ちあふれています。 それは誤った状態です。 神智学協会の会員である私達は恐怖の原因は何なのか、またどうすれば恐怖の雲を追い払うことができるのかを知るために、知力を使う必要があるのです。 自分には恐怖はないと言える人はいません。 執着を持たない人だけが恐怖のない人です。 私達はみな執着に満たされているものですが、何かに執着しているならば、それは恐怖につながります。
持っていたいものを失う恐怖や、求めるものを得られないという恐怖です。 それは精妙なものかも知れませんし、潜在意識に隠されているものかも知れませんが、それが存在し続けることがなくなることへの恐怖があるかもしれなのです。 もし知性的であるならば、その人は観察し調整し瞑想して、どうしてこのことが人間の心にそんなに広がっているかを学び取ります。 そのためには無数の困難が起こります。 恐怖があるために、私達は反応し、恐怖があるために偏見を持ち、恐怖があるために協力するのです。 人々が自分のことをキリスト教徒とか、ヒンズー教徒とか、アメリカ人、アフリカ人と呼ぶのは、自分を保護してくれると感じさせてくれる集団であるからです。 私達が自分のことをインド人などと呼ぶのは、特別な文化や生活様式についての自由な認識をもっているからではありません。
そういう呼び方で自分のことを考えるのは、他の人と団結することによって、個人的な利己主義が守られるだろうと感じ想像するからです。 その根はほとんど、世界に直面することへの恐怖であり、地盤を失うことへの恐怖なのです。 そしてそれは、知性的な生き方ではありません。 まさしく、このことは、神智学協会の本当の会員として生きることとは、普通当然のことだと思っている考え方や行為のあり方を吟昧することだということを示しています。 神智学徒は自分の行動様式を含み、何事も当然のことと思ってはならないのです。 なぜなら、マインド(精神、知的な心)には自分を惑わす癖があるからです。 もしもマインド(精神、知的な心)に恐怖があるならば、とても独断的になり自分はとても強い人間であると想像するようになるでしょう。 しかし、実際に強い人には脅かされるものは何もないので、素朴で謙虚です。 脅かきれるのを感じる人だけが、自己主張を必要とするのです。 独断があるから力があると断定するならば、それは間違いです。 ですから何事も当然であると思ってはなりません。
探究すること、発見することが必要です。 これはわずかな問いや、一日あるいは数日間で行われることでなく、生涯を通して注意を必要とすることです。 この種の注意があれば、すでに智慧の始まりです。
また外部で起こっていることにも気づかねばなりません。 新聞によって、隣人によって、救師たちによって、そして両親や家族に無理に押し付けられた沢山の観念があります。 その観念にどれだけの価値があるのかを調べなくてはならず、単純に受け取って、その信奉者になってはなりません。 神智学徒になるためには、周囲が設けた既成観念に依存しない意昧の独立的態度を自分の中に持つことを求められます。 真の神智学徒になるためには勇気が必要であり、必要なれば独立し、自由に考え、他の人々の言うことにやみくもに従わない力がいります。
神智学協会という組織は、二つの強い往で建てられています。 一つは自由であり、もう一つは同胞愛です。 これは人生にとって基本的なものです。 初めに言ったように、私達は与えなければならないという気持ちがなく、さらに全体のためにならないものは持つ価値がないという気持ちがないならば、また、人々との調和の気持ちや、運命を分かち合おうという感覚がなければ、神智学という深遠な智慧を理解し始めることは本当にできません。
ですから、同胞愛は一つの柱である以上に多くのことを意昧しています。それは大きな行為にも、小さな行為にも表れます。 自由は神智学協会のもう一つの柱です。 神智学協会はある点では独自の行き方をしています。 神智学協会は、神智学協会会員および神智学協会にやってくる人達にはたとえ、会員にならない人々にも、宇宙の確かなヴィジョン(理想像)と、ある神智学徒達が一般的に人生について得た理解を伝えます。 神智学徒のある人々は大変感化力のある人物で、その人達の言ったことには大きな価値があるといえるかもしれません。 しかし、神智学協会は、神智学の文献や、その摂供する世界観や、その他の思想を一つの信仰のように会員に押しつけはしません。 神智学協会は既成の啓示を誰にも与えようとはしませんし、神智学協会には賛同しなければいけない固定観念はありません。 一方、もしある人に信条を捨てさせ、既成の概念を捨てさせる探究の精神がないならば、その人はおそらく神智学徒であろうとはしない人です。
神智学協会には特定の信条はありませんが、人類の福祉に熱心に献身する人生を生きてきた人達や、多くの人達にインスピレーション(天啓)を与えてきた人達の思想を提供します。 私達各自には、与えられるものを学び、自分なりに理解し実現してゆく自由が残されています。また、神智学協会には特定の信仰はありません。 信仰は世界を対立させるからです。
キリスト教徒は何かを信じているから異教徒に反対し、回教徒は何かを信じているから自分のように信じない者達を自分の兄弟でないと思うのです。また、ヒンズー教徒は自分を優れたものだと思っているのです。けれども、一番賢い人は最も謙虚で、自分は優れているとか、選ばれた者であるとは思わないのです。 ある特殊な神への信仰や、排他的な教会の信仰や、分離させるような教義や信条への信仰は、いつもこの悲しい世界を苦しめ悩ませてきました。 恐ろしい残酷行為が宗教の名のもとに、一つの信仰や一つの観念にほかならない神の名のもとに行われてきました。 ですから、私達は対立する信仰を永続させることを望まないのです。
私達は正当性を知るための何らかの試金石を持っています。 それは愛の試金石であり、愛情、同情の試金石なのです。 もしある信仰や信条がハートを固くし、同情心を滅少させるならば、それには何か間違いがあるか、もしくはそれに対する私達の理解の仕方が間違っているのです。 同情は感傷的なものではありません。 そして、同情心や愛情や真の愛には選択はないのです。
最高の悟りを得られた仏陀には太陽のように放たれる愛があり、その愛はあらゆるものに平等に暖かさと光を注ぎました。 愛を与えることでは選択をしませんでした。 仏陀は幼い人に会われた時、親切で簡単な言葉で話され、その言葉はその人に合ったレベルで光をもたらしました。 しかも、理解できる人には、最も深遠な真理について話されました。それは選択せず、より好みのない至高の愛があったからで、その表現方法はすべてのものにふさわしいものでした。
ですから、本当の同情と愛情は、人をより好みはしないのです。 私達が研究していること、考えていることなどが神智学的であるかどうか探り出すことができる試金石は、理解と智慧の増大があるかどうかもテストします。 智慧と知識は違います。 知識は愛情と分けることができますが、智慧は決して愛情と離すことはできません。 智慧はハート(心)とマインド(精神、知的な心)を結びつけます。 マインド(精神、知的な心)にはハート(心)の同情によって暖められる理解があります。 この二つはお互いに離れることはありません。 この文章では、神智学及び神智学協会の示すものをこれ以上広げることはしません。 私はあなたの注意を引くために、わずかなことがらを持ち出したにすぎません。
アニー・ベサント博士(神智学協会第二代会長)は、神智学は大海であると言いました。 大海には子供が安全に水遊びできる浅い所もわるし、巨人も足の届かない深い所もあります。 それは確かです。 私達が正しく生きれば生きるほど、私達はいっそう学び、考え、瞑想します。 また、私達の人間関係が純粋になればなるほど、意識の中のどこでも受け継いでいる美と深遠さにもっと深く気づくことでしよう。 その奥深さ、決して色あせることのない真理に気がつくようになることが、本当に神智学的な智慧を学ぶことになるのです。
私は神智学協会のすべての神智学協会会員を代表して、あなたを神智学協会の会員として暖かくお迎えいたします。 そして、神智学協会があなた方の人生を豊かにし、向上させてくれることを望んでおります。 多くの神智学協会の会員は、神智学協会において同じような生き方をしている他の会員達との仲問としての意識を育てることができ、また神智学協会を通して、私達は他の人々を助けることができることを知っています。 神智学協会でのあなた方の人生が、内的な意昧で満たされ豊かでありますように、また、あなた方があらゆる点で人生の幸福と祝福感を見いだされますように望んでおります。 |
○神智学協会ニッポン・ロッジは、神智学協会(ザ・セオソフィカル・ソサイアティ 国際総本部インド アイディヤール)の日本における支部(下部組織)として活動します。 ○神智学協会ニッポン・ロッジは、神智学協会の目的の遂行と神智学協会の推奨する神智学の教えの普及につとめます。 神智学協会の目的 人種,信条,性別,階級,皮膚の色の相違にとらわれることなく,人類の普遍的同胞愛の中核となること。 比較宗教,比較哲学,比較科学の研究を促進すること。 末だ解明されない自然の法則と人間に潜在する能力を調査研究すること。 ○神智学協会ニッポン・ロッジの会員制度は、年会費制とし、2008年度の年会費は4500円 とします。 ○神智学協会ニッポン・ロッジにの会員は、神智学協会(国際総本部インド アイディヤール)の会員名簿に登録されます。 ○神智学協会ニッポン・ロッジ会員は、会員サービスとして会報誌『神智学徒 日本版』(郵送版)の配布を受けます。 |
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神智学協会ニッポン・ロッジ 会員制度 年会費 4500円 (初年度入会金1000円)
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